オーストラリアにやってきた。

今から4年近くまえ、2000年の春(オーストラリアでは秋)に、
私は夫の赴任についてオーストラリアに来た。
一向に治らない痛みと痺れを抱えた毎日で、来た当初は不安でいっぱいだった。
この国に来るためのビザを取るために、健康診断があって、
本来なら首の痛みは既往症として申告しなければならなかったが、私は、病院の問診表に、現在どこにも悪いところはなし、のところに丸をつけ、怪我の後遺症についてはまったく申告しないで日本をたった。

もちろん、外国に行くのにそのやり方は今思い出してもとても強引で無謀だったし、
違法でもあったのだが、いくら整形外科に通っても、気の持ちようだ、そんなにいたいはずがない、誰でもその程度の痛みは大騒ぎしないでがまんしているものだ、と何しろドクターから言われているので、医者がなんでもない、健康だというのだから健康なのだろう、となかばやけくその心境だった。

オーストラリアまでの約9時間のフライトは、エコノミーのいすに同じ姿勢で座っているのが背骨に答えて、今思い出してもとてもつらかった。
うまく座らず痛む首に、エアクッションをあてがって、やっとの思いで飛行機からおりたのを覚えている。

ついてすぐに、住む家を決め、車を買い、家具と電化製品を買い揃えて、電話やガスをひき、子供の学校の手続きをする。など、生活を軌道に乗せるために、それこそ歯を食いしばって痛みに耐えて毎日の生活を必死にこなしていた。

痛みは相変わらず、いつも私の体にあって、片時も離れる瞬間はなかった。
日本から持ってきた大量の薬を飲みながら、ただただ忙しい灰色の日々と格闘しているような気持ちだった。
日本でいくつもの整形外科をむなしく回った経験から、この国でまたもや英語を駆使して病院に行く気持ちには全く慣れなかった。
体の痛みをなんとかしてとろう、という気持ちはどこかに置き忘れて、ただ痛みのなかであきらめきって生きていた。

その年のオーストラリアは、雨ばかりだった。年末の記録で、観測史上4番目に雨の多い年、といわれたほどひどい土砂ぶりの雨が続いた。
雨降りの日は、むち打ちとヘルニアが特に執拗にいたんだ。
暗い、灰色の空の下、友達もまだ作れない孤独な日々を送っていた私は、次第に憔悴していった。
朝、子供のお弁当をやっとの思いでつくり、学校に送り届けた後、午前中からひどい疲労感に襲われてベッドに倒れこむ。
必要最低限の家事のほか、全く誰とも口を利くことなく引きこもって寝たきりの日々が続いていた。子供の送り迎えや買い物のため、やっとの思いで車を運転するとき、いつも通る橋の上で過失による事故に見せかけて橋の上からダイブして死んでしまいたい衝動にかられていた。
今思い返すと、典型的なうつ病だったが、主な自覚症状が体の痛みだったために、自分では全く病識を持っていなかった。

いつの間にか、この国にきて半年近く月日がたっていた。


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