最後の砦 大学病院
気がつくと月日は経ち、いつのまにか受傷して2年以上の月日流れ、とうとう2001年のお正月を迎えていた。痛い、痛いとただただうめきながら、私は21世紀を迎えたのだ。なんて情けない世紀はじめだろう。
私だけではなく、家族もいい加減疲れ切っていた。なかなか治らない痛みに、夫もうんざりして、気の持ちようだ、と怒っていたし、娘もまったく笑顔を見せない母親の姿に遠慮してどことなく暗くなっていた。人を見れば愚痴をこぼしているので、私は随分たくさんの友人をなくしていて、家の中もすさんでいた。今年こそ何とかしなければ。21世紀をこのまま過ごすのはあんまりだ。
時を同じくして、夫の海外赴任の話も持ち上がっていた。出来れば私だけ日本にいて、夫にはひとりで行ってもらいたかったが、家族は一緒、と信じて疑わない夫と、新しい経験をしたがって楽しみにしている娘のために、何が何でも私は治らなければならなかった。
そうだ。まだ、大学病院に行っていない。最後の砦、白い巨塔に行ってみよう。医学部の教授なら、なんとかしてくれるのではないだろうか。
お正月早々決心した私は、夫に付き添ってもらって大学病院を目指すことにした。
自宅から遠く離れた某大学病院である。込んだ電車を避けるため、ふらふらしながら、朝5時に起きて早朝の電車に乗り込んだ。
大学病院は皆どこもそうだが、この病院もとても込んでいた。朝9時に受付を済ませたというのに、整形外科の待合室で延々と待たされること1時過ぎまで。空腹でふらふらしながらやっと外来診療室に入れたとき、私はいやな予感に襲われた。ドクターが、いやに若い。若いからといって別に偏見があるわけではないけれどなんといったらいいのか、いかにも尊大なオーラがにじみ出ているのである。何軒もの病院を回ってきた私は、尊大、横柄な医者というものを人目で見分けられる嗅覚を持つようになっていた。
どこの病院にいっても、まずはレントゲンを撮られて相当短期間に被爆をしていた私はもうレントゲンはこりごりだったので、このたびは接骨院からMRIを借りて持ってきていた。恐る恐る画像を差し出しながら、私は患者が座るいすに腰掛けて切り出した。
「2年以上まえにむち打ちになってから、ヘルニアが二つできたり、側湾してしまったりしているうちに頚椎症がこじれてしまって、顎関節まで悪くなったり、自律神経症状が治まらなかったりして、痛みや痺れが治らなくなってしまったんです。」
「ふうん。で、僕にどうしてほしいの?」
20代の若さと思われるというのに、失礼ながらでっぷりとおなかの出て妙に貫禄がある男性医師が開口一番こうのたまわった。
「どうしてほしいって言われても・・・。どうしたらいいか、それを教えていただきたくてきたんですけど。」
「MRIを持ってきているということはさ、ここに来るまで散々いろんな病院いったんじゃないの。そこの先生方はなんていったわけ。」
「オペの対象になるほど大きなヘルニアではないから、リハビリを続けてみましょう、といわれました。局所麻酔の神経ブロックもしたし、牽引もしたし、レーザーもしたし、低周波もマッサージも、運動もなんでもやったんだすけど、痛みが治らないんです。腕が重くて上半身がだるくてしかたない。わき腹や肋骨にもワイヤーで縛られているような痛みがあって、全身の倦怠感がとれなくて・・・。」
訴えを聞くと、胡散臭そうな顔をしながらも、その場で整形外科のドクターがいつもひととおりやる神経障害の検査をしてくれた。握力をはかったり、足をハンマーのようなものでたたいてみたり、腕を持ち上げて鎖骨の部分を圧迫する姿勢をとって脈をはかったり(これは胸郭出口症候群のテスト)。
ややしばらくして、
「まあ、反射がちょっとおかしいかな、とか脈も多少は弱いかな、とかさ、全然異常がないかといわれれば多少はあるけど。こんなの肩こりもちの中年なら誰でもあるってレベルじゃないの。こういうのを僕たちは神経障害とはいわないからね。これくらいのヘルニアでオペしていたらリスクとリターンのバランスが取れないよね。もっといろいろ痛みや障害のスコアが高い人でも、大丈夫です、って保存治療して愚痴のひとつも言わずにリハビリしてる人たくさんいるんだよ。僕にどうしろっていうの?」
「みなさんそうおっしゃるんですけど、だったらどうしてこんなに痛いんですか?日常生活が出来ないんです。もうすぐ海外に赴任するのに、これでは困るんです。こちらでは他に治療はないんですか。」
「ないよ。こんなの・・・。どうしてもっていうならさ、造影剤をいれてもう一度MRIとってみるけどさ、不定愁訴は自分で克服してもらわないとねぇ。大学病院ってところは患者の愚痴をきくためにあるわけじゃないからねぇ。じゃ、造影剤いれてMRI取る検査の予約するからさ。その結果がでたらまた来てよ。はい、検査表だから。お金の無駄だと思うけどね。」
不快感を丸出しにしたその若いドクターは、私に検査表を投げやりに手渡した。大きな病院で冷たくあしらわれるのにはもうここ2年間でなれていた私だったが、これほどに冷酷な扱いを受けたのはさすがに初めてだった。惨めを通り越して、猛烈に腹が立ってきた。
この人のこの態度はいったいなんだろう。日本には国民健康保険があるとはいえ、一応患者はみな診察料を払って診療を受けている。何時間も待たされた上に、なぜこんな扱いを受けなくてはならないのだろうか。思わず怒鳴りつけてやりたいのをやっとの思いでこらえて、すごすごと診察室をでて、またもや1時間がかりで会計をすませた。すべてをすませて外にでてみると、3時を回っていた。
朝の7時過ぎに郊外のうちを出てから、何も口にしていない。目が回りそうな空腹で、仕事を休んで付き添ってくれた夫に申し訳なかった。
「すしでも食べるか。せっかくここまで来たから。」
気の毒そうな顔をしながら、夫は私を促して、お客さんでいっぱいのおいしそうなすし屋ののれんをくぐった。わたしはひとことも口を利くことなく、ぼんやりとしながらもくもくとすしをほおばって、またもや耐えられず涙をこぼした。いい年をした中年のおばさんだというのに、ここ数年整形外科にかかると絶望感で泣いてばかりである。いったい日本全国に、こうやって整形外科に通うことをあきらめて人知れず怪しげな民間治療に数百万円をついやしてしまったり、わけのわからない新興宗教に入信したりしてしまう慢性疾患を抱えた患者はどれほどいるのだろうか。もう少しなんとかならないのか。
21世紀のこの時代に、どうして経済大国日本の医療事情はこんなに患者の心の痛みにそわないのだろう。
いつものことながら行き場のない絶望感を抱えて、私と夫は窓に夕日の差すくだり電車に乗り込んだ。
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