HELP!!口が開かない。なぜ?

はてしない不定愁訴に悩まされるある日、私は朝起き抜けに妙に歯が痛いことに気がついた.
新しい虫歯があるようには思えなかったのに,朝食を食べるときにパンをかむと、歯から顔にかけてズキズキと痛んだ。何なんだろうこれは。むちうちになると歯まで悪くなるのだろうか。
疑問に思っていると、その内下あごから頬にかけてで痛み出し、やがて口が開かなくなってきた。食事をするのも不自由で、うっかりあくびでもしようものなら耳の前にあるあごの関節がガクッと大きな音をたて、口の中と顔に激痛が走った。左に即湾してしまった頚椎につきあって、右顎が右斜め下に回旋して落っこちてしまったような感覚があった。顔と首がずれてしまっているのである。頭から届く神経の指令が、顔がずれてしまったためにうまく足に伝わらないような感じで、ほどなく私は、まっすぐに歩くのさえ難しくなった。なんということだろう。頚椎ヘルニアに続いて、得体のしれない歩行障害まで抱えた上に、口が開かずに食事も満足に出来なくなった!!

顎関節症の始まりだった。

弱り目にたたり目といったらいいのか。泣きっ面にハチといったらいいのか。次から次へと襲ってくる新しい病気の数々にわんわん大泣きしたい気持ちをこらえながら、私は歯医者さんを探し始めた。

その辺の町医者にかかって満足な治療受けられないまま悪化していった頚椎に懲りていたので、顎関節は一流のドクターをさがそうと決意した。ネットを探し、文献を読み、知り合いの歯医者さんに頼んで、有名な歯科クリニックを予約した。

ドクターは顎関節の治療では超一流で、たくさんの本を書いている。普通の病院では治らなかったような重症の患者さんが全国からやってくるクリニックである。

錦糸町にあるビルの一室のそのクリニックを尋ねると、入り口は小さな玄関と受付のテーブルがひとつで以外に小さかったが、中は蜂の巣のように細かくブースに分けられていて、たくさんの診療台が収まっている。ひとつひとつのブースには、趣味の良い絵が飾られていたり、お花が生けてあったり。ゆったりしたBGMがかかった、いかにも完全自由診療の高級そうなクリニックだった。

診療台に横たわると、普通の歯医者さんとは何かが違うことに気づく。リクライニングのチェアが、妙に心地よいのである。

「このいす柔らかいですね。」
ややしばらくしてやってきた院長に尋ねると

「そうだよ。これは、テンピュールといってね、形状記憶ウレタンで出来てるんだ。クビだの、腰だの、顎関節症の患者さんには背骨を怪我している人が多いから、いすに座って上を向いても苦しくないようにうちの診療台は特注なんだよ。」
と、ニコニコしてそう言われた。

なるほどこれでは全国から患者来るはずである。

「むちうちがきっかけで頚椎ヘルニアやら、側湾症やらになって、今度は顎ががくがくしてあかなくなってしまったんです。口を開けるたびにバキバキ行って、いたくて満足にものが食べられません。どうしたらいいですか。」
これこれしかじかと事情を話すと、見るからに優しそうで、ロマンスグレーの気さくな感じの院長は、
「頚椎損傷から来たのか。そりゃ大変だね。」
と整形外科よりよっぽど親身になって同情してくれた。
何しろ完全自由診療だから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが・・・。

このクリニックでは、顎関節症の患者さんは院長の歯科的診療を受けると同時に、クリニック付属のカウンセリングを受診することが建前になっている。顎関節症という病気が半分以上は心理的ストレスからくるからだそうだ。ただ私の場合、頚椎損傷から来る、という因果関係が明らかなので、それは免除してもらって、いきなり理学療法から始まった。

接骨院にあるような低周波治療器がここにも備え付けてあって、頬や顎、耳の周辺の筋肉のリハビリをした。そのあと、院長自ら口の中に手を入れて歯を押さえ、顎に向かって所々ぐっと押さえつけられて、これはなんと表現したらいいのだろう。かみ合わせの矯正手技?のようなことをしたところ、1センチほどしか開かなかった口が、少しあくようになった。顔の痛みは随分マシになる。

「どう?楽になっただろう?」
「はい、随分マシになりました。」
「しばらく通ってね。まだ十分口が開かないから、スプリント(マウスピースのこと)は作れないよ。顎関節症といえばスプリントを作るもの、と思い込んでいる患者さんは多いけど、あれも弊害があるからね、うちではすぐには作らないんだ。かみ合わせもね、家では歯はめったなことでは削らないよ。」

後になって、オーストラリアで顎関節症のスペシャリストに見てもらった経験から照らし合わせても、このクリニックの治療方針は徹底して、顎関節症をかみ合わせがずれたために起こる器質的な障害ではなく、心身症のひとつとして捉えるやり方で、院長のアプローチはとても心の痛みによりそう感じだった。
一風変わっていたのは、エアーマウスピース、とも言うべき治療である。
お口の中に、空気で出来ているマウスピースがある、と患者はイメージコントロールで想像する練習を言い渡される。言われたとおり、一生懸命努力していると、実際にマウスピースをしているのと同じ効果があって、それだけで5,6ミリもかみ合わせが浮き上がることもあるそうだ。

「かみ合わせのズレだの、顎のズレだの、関節円盤の損傷だの、そんなのは年取ればだれでもあるんでね。それを気にして、あっちを削り、こっちを削る、という治療だと、かえってノイローゼになってしまってこじれるんだよ。心の痛みを先にとる治療を心がけると、苦しい症状もやがて治まっていくんだな。歯でもね、元から体にあるももは、出来るだけ自然のまま、簡単に削ってはいけないんだ。」

実はこのクリニックの院長自身が、若いころストレスで関節円盤を噛み潰してしまい、顎関節症でたいそう苦しんだという。だから患者の気持ちがわかることはどこの歯医者さんより確かだそうで、耐えられない痛みに苦しむ患者さんにはまるで麻酔科のように神経ブロックもしてくれる。もちろんマウスピースも作ってくれる。診療費こそ自由診療でかなり高価だけれど、痛みに苦しむ時には理学療法が終わるまで、1時間以上かかっても、かたわらにスタッフがいて励ましてくれる。横柄で取り付くシマもない整形外科参りに相当傷ついていた私は、ここの歯科医院で随分癒された。

やがて、しばらくリハビリに通ったのち、どうやら口はまた開く様になった。

ストレスで歯を食いしばるのが一番いけないんだよ、とくれぐれも院長にさとされながら、私は最大のストレス、首の痛みや全身にわたるおかしなしびれや自律神経症状と、またもひとりで向き合わなければならなかった。もう、万策がつきはてて、いったいどうしたらいいのかわからなかった。

軽いむち打ち、と思って気楽に整形外科に初めてかかってから、かれこれ2年以上がたとうとしていた。

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