プロソドンティスト

「エリー、大分体力もついて、お薬にも慣れてきたようだから、今度は顎関節症のスペシャリストに通って、顎関節の障害を治療していきましょう。
プロソドンティスト、というスペシャリストにもう電話をしておいたの。シドニー大学の教授だから、超一流のドクターよ。きっと良くなるわ。」

サンドラの元に通い始めて3ヶ月目。 満足に歩けなかったころから比べるとどんどん明るさと体力を取り戻してきた私に、今度は歯医者さんを紹介してくれた。

いつもながら、てきぱきとリーダーシップを発揮して、ひとつずつ確実に私が抱えていた痛みを肩代わりして解決して行ってくれるその診断と処方の確かさに驚かされる。

シティにある大きなビルの中にそのプロフェッサーを尋ねると、威厳のあるユダヤ人の先生だった。
日本では、歯医者さんは基本的にはオールマイティーで、かみ合わせの調整も虫歯の治療もほとんど開業医1軒にかかれるが、この国では、歯医者さんといえどいろいろ専門に別れている。プロソドンティストは、かみ合わせや顎関節症の治療を主に受け持つ専門のドクターで、基本的に虫歯の処置は一切やらない。

頚椎の変形につきあって、大きくずれてしまった顎の関節は、手術でもしないと直らないもの、と思っていた。
口の中や舌、顔など顔面口腔痛がずっと止まらなかった私だが、ドクターは薬物とスプリント療法で治る、と請合ってくれた。

「ストレスがこの病気には一番いけないんだよ。人間なんだから関節のずれなんか誰でも多かれ少なかれ持っているんだ。それがすぐ深刻な病気になるわけじゃないよ。ストレスで歯を食いしばるのが一番関節を痛めるんだ。
それを防ぐために薬を飲んで、関節を保護するために食いしばり防止のマウスピースをつける。根気よく治療すれば、ちゃんと良くなるよ。」

このクリニックにも、ずいぶん一生懸命通った。

この国の歯医者さんは完全予約制で、治療費が高額なので、一人1時間かけて丁寧につききりで治療してくれる。オフィスにはいつもゆったりした音楽が流れていて、歯医者独特の消毒液のにおいや不愉快な金属音はずいぶん緩和されている。
デンタルナース(歯科衛生士)はアグネス、というすごい美人のオーストラリア人で、治療中はずっとそばについて緊張でかたくなって震えている私の手を握っていてくれた。
首を怪我してから、歯医者さんの診療台や美容院のバックシャンプーが苦手で、長い間座っていられない私は、苦しくなると彼女の手を握り返して抱き起こしてもらった。
日本人同士なら気恥ずかしいスキンシップも、相手がオーストラリア人だと不思議に気にならず、しみじみと暖かく感じる。何しろ、こちらの医療スタッフは患者に頻繁に触ってくれるのだ。優しく声をかけながら背中をさすったり、手を握ったり、どの患者にも気さくに、ドクター自らがスキンシップを取ってくれる。診察室を出るときにありがとうございます、と挨拶すると、ドクターは立ち上がって、必ず握手をしてくれる。
そういった治療の場で、医療のプロの手で、治りますよ、といわれながらそういうスキンシップを受けていると、それだけで癒される気がするのは私だけだろうか。

はじめのうちは、全く口が開かないので、マウスピースも作れなかった。
マッサージをしたり、神経ブロックをしたり、耳の前からほほ全体の筋肉をとにかくほぐす治療が続いた。筋弛緩剤を飲みながら、指導を受けた開口のための運動を慎重にしていく。
物理的に筋肉を刺激するだけではなくて、食いしばりをやめるための自己暗示、リラックスするための自律神経の訓練、ドクターとデンタルナースによるカウンセリングなど、治療は精神的な面にも及んだ。
ここでやっている治療のすべては、ホームドクターのサンドラのところに報告がいっているので、主治医も私の歯と関節の治療の進み具合をちゃんと把握してくれて、薬の調整をしてくれた。

きっと治る、と信じて続けた毎日の気長な努力で、少しずつ口が開けられるようになっていった。

口がやっと開くようになると、今度はプラスチックでできたマウスピースを装着する。
はじめのうちは昼夜を問わず装着して、食いしばりを防ぎ、少しずつ少しずつ関節や筋肉の萎縮をほぐしていく。
毎回、数ミリ単位でかみ合わせを調整してもらって、マウスピースを削りなおし、ドクターに励まされているうちに、口の中や顔の痛みはほんの少しずつ消えていった。

ジストニアの発作を起こしてサンドラの元に運ばれたころには、ストロー1本ほどしか口が開かなくて、流動食しか食べられなかった。

このドクターの下に通い始めてから、また口がだんだん開くようになった。

ごく普通に食事のできる、健康な日々が戻ってきた。

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