カウンセリング ドクターもうつ病だった。
Drサンドラのもとに通い始めて、半年ほど。このころになると、体の痛みはだいぶ良くなっていた。
まともに歩けなくなったころと比べると、私は驚くほど健康になっていった。いつのころからか、診療の時間はカウンセリングの時間になっていた。
あのころ、体の痛みが楽になったのはうれしかったけれど、この痛みが普通の痛みではなくて身体性うつ病からくるものだということが、私には心理的に受け入れられなかった。うつ病という名前の響きに、だれよりも私自身が偏見を持っていた。そういう病気とは、自分は縁がないものと信じていたかったのだけれど、そういう私の偏見をドクターは少しずつ時間を掛けてほぐしていってくれた
さまざまな不安から診療のたびにいろいろなことを尋ねる私に、ドクターは一つ一つ丁寧に答えてくれた。
「この病気は子供に遺伝するのですか?」
「うつ病そのものが遺伝するということはまずないの。特にエリー、あなたの場合肉体的なけがが原因で発症した病気なので、遺伝の確率はさらに少ないと思うの。
ただ、何か強烈なストレスにさらされたとき、うつ病を引き起こしやすいという体質は、遺伝してしまうかもしれない。私がそうだから。」
「え?ドクター、あなたもうつ病なんですか?」
「そうよ。うちの母が帯状疱疹から慢性疼痛障害になって、抗鬱薬で治療した話をしたわね。私も、医師になってしばらくまだ新人のころにとても忙しい病院に勤めていてうつ病になったの。それはまだ若いころだったから、半年ほどの治療で治ったわ。
でも、7年前に35年間続いた結婚生活が破たんしてから、再発したの。もう7年になるけれど、いまだにパキシルを40
ミリ飲んでいるのよ。
私も自分で自分の治療はできないから、精神科のスペシャリストにかかっているけれど。
スペシャリストからは、生涯にわたってパキシを続けるようにいわれているの。うつ病を引き起こしやすい体質は、母から私に受け継がれていたのね。強烈なストレスを経験したときに、母も私も発症したわけ。でもそれほど強烈なストレスがなければ、一生健康なままだったかもしれない。それわからないわ。」
「じゃあ、私の場合もうつ病になりやすい体質は娘に遺伝するのですか?」
「それはわからないわ。するかもしれないししないかもしれない。でも、たとえしてもあなたのせいじゃないわ。」
知らなかった。ドクターサンドラもうつ病患者だった。
患者と大きな距離おかず、自分自身の病気のことを教えてくれたことは、個人的にとても感謝している。
うつ病という言葉には何ともいえない暗い響きがある。この病気にかかってしまうと、まるでこの先社会復帰できないかのような気持ちになってしまっていた。
けれど、てきぱきと患者の診療にかかわるドクターが、抗うつ薬を最大量飲んでいる現役のうつ病患者だという事実は、私を多いに励ました。薬さえ飲めば、よくなってこんなに生き生きした毎日が送れる。頭脳明晰で健康な人間になれる。大きな希望だった。
いかにも白人らしい割り切り方だが、たとえ遺伝したとしてもそれはあなたのせいじゃないわ。という言葉にも、ずいぶん勇気付けられた。
それにしても7年間も抗うつ薬を最大量飲み続けることで、体に異常はないのだろうか。
「ドクター、パキシルをそんなにたくさん飲んで副作用ないんですか?」
「飲み始めは、ドライマウスとか便秘とかいろいろあったけれど、私はもうなれたわ。
肝臓にも異常はないし。医者をしていると、本態性高血圧とか糖尿病とか…
毎日薬を飲まなくちゃいけない患者さんと接しているでしょう。
維持療法の抗鬱薬は、お薬の中ではそんなに面倒なものじゃないわ。この病気はそんなに付き合いにくい病気じゃないのよ。」
「でも、なかなか治らなくて何年もかかる患者さんもいるような話をよく聞くんですけど。」
「それはたいていの場合、薬の量が足りないの。それから、うつ病と診断されても人格障害を合併しているケースも時々あるし、そういう場合が治りにくいの。でも純粋なうつ病は、お薬さえ十分な量をのめば98%くらいまで治るのよ。薬が効かない難治性の場合でも、ECT、電気痙攣療法が有効なケースが多いの。」
このころになると、毎回診療に行くたびにドクターといろいろなことを話し合った。
長い間抱えていた心の傷のこと。夫婦関係のこと。娘のアトピーがなかなか治らないこと。日本の整形外科でとてもつらい思いをしたこと。だれにも痛みを分かってもらえなくて1人で苦しんでいたこと。私は心の底にあったさまざまな思いを吐き出して、体の痛みだけではなく心の痛みも少しずついやしていった。
ドクターサンドラからは、合理的なものの考え方を教わった。
いわゆる認知行動療法というものだろうか。長い間かかったが、だれにも痛みを分かってもらえず半分正気を失って何年も自分自身ではなかった私は、心の面でも少しずつ健康を取り戻していった。
オーストラリアに来てから気がつくと1年がたっていた。
その年は気持ちの良い青空が多い年だった。
美しい夜空も、鳥の鳴き声も、木々の緑も、しみじみと味わえるようになった。
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